こんにちは、あとかです♪
私が「高校生」だったのは、もう30年前になります。
その当時、私は運動部ではなく、文化系の部活に加入していました。
また、その頃の毎日は、今思えば、その後の人生の思考や人との接し方にも、とても大きな影響があったように思います。
今回は、【文化部の生活】あの頃の僕は毎日映画を撮っていた。【高校時代の思い出】について、ご紹介します。
なお、自分の経験した本当の話ですが、身バレしない様にあえて、名称など変更している部分があります。
【文化部の生活】あの頃の僕は毎日映画を撮っていた。【高校時代の思い出】
高校入学から入部まで
県立高校に入学した当初、私はある運動部からしつこく勧誘されました。
2年生の先輩達からだけでなく、同じ新入生からも「何故、入部しないんだ?」と問い詰められました。
実は、私は、中学生の頃、その競技で、幸運にも市の大会のベスト4に入り、県大会に出場するくらいの実力でした。
もちろん、全国区レベルではありませんが、近隣の中学校の同学年の部員には、それなりに名前を知られていました。
そのため、周りはみんな、私が高校になってもその運動部に当然入ると思っていたのです。
けれども、私は中学生で、その競技を辞めると決めていました。
私には、高校で、それよりも、もっとやりたいことがあったからです。
私が加入したかった部活は、「映画研究部」でした。
いわゆる「映研」です。
私は、子供の頃から映画や海外ドラマを観るのが好きでした。
それに、観た作品の記録をつけるという、あまり人に理解されない趣味を持っていました。
今考えると、このようなブログを書く素養は、当時からあったのかも知れません。
私の進学希望の高校に「映研」があることは、受験勉強に対する大きなモチベーションとなりました。
きっと私の様な奇特なことを楽しんでいる人たちが集まる部活だろうと、想像したからです。
そうして、やっとのことで、その高校に受かり、入学することができました。
部活入部解禁となった日、早速、かねてより目をつけていた「映研」のドアを叩きました。
映画研究部
「映研」の部室は、文化部だけが集められた部室棟の2階にありました。
部室は8畳ほどの部屋が割り当てられていましたが、ギチギチに学生が集まっていたのを覚えています。
男女比は半々くらいだった様に思います。
映画撮影から出来上がるまで
その当時、映画の撮影に使っていたのは、8mmカメラでした。
8mmカメラと言うのは、現在のようなデジタルカメラと全く違います。
アナログの作業の連続で、手間と時間が途方もなくかかります。
今思うと、学校にいる間だけで、よくこんなことをする時間があったなぁと不思議に思います。
1 撮影
まず、カメラにフィルムを入れて撮影します。
スマホなら何時間でも撮影できますが、8mmフィルム1本で数分しか撮影できません。
その度にカメラを止め、フィルムを取り出し、新品のフィルムを新たに装着しなくてないけません。
撮影後も、その時点では、上手く撮れたのかどうかもわかりません。
2 現像
その後、カメラ屋さんで現像してもらい、ネガフィルムにします。
今はほとんど見かけることはありませんが、昔は、カメラの現像だけを専門に受け付ける小さなお店が沢山ありました。
今ならプリンターですぐに印刷されて出てきますが、8mmフィルムの現像は数日間かかります。
現像代金も結構な額で、1本あたり7〜800円くらいはしたと思います。
3 編集
現像後のネガフィルムを受け取った後、そこから手作業で、「編集」することになります。
パラパラ漫画のように少しずつ動いていくコマを見ながら、不要な部分と、必要な部分を確認します。
不要な部分は、ハサミや専用の機材で切りとり、必要な部分は特殊なセロファンテープのようなもので張り合わせてつないでいきます。
文字通り、「カット」し、「繋ぐ」のです。
想像通り、ものすごく手間と時間のかかる作業です。
4 アフレコ
その後、音声をアフレコします。
撮影時に、カメラのマイクで一緒に、一応音声も録音できました。
ただ、カメラについているマイクは性能が著しく低く、特に屋外で録音された音声は風の音や周囲の音を拾いまくって使い物になりませんでした。
そのため、後から音声のみフィルムに録音しました。
8mmフィルムには、音楽カセットテープのような磁気部分があって、そこに音声を上書きできました。
音楽もつけることができました。
5 試写会
映研の部員や、他の文化部の部員に、部室に集まってもらい、観てもらいます。
伝統的に、アンケートを書いてもらうのですが、無記名を良いことに、ひどく辛辣なことも書いてありました。
幾度か喧嘩になったこともあります。
6 上映会
主に「文化祭」が発表の場です。
意外と人気があり、会場となる視聴覚室は満席となりました。
他にも、新入生の歓迎の場や、高校生の映画コンテストなどにも出品していました。
先輩で受賞した方もいらっしゃいます。
下積み生活
1年生の頃は、先輩達の映画制作の手伝いや、エキストラ出演、小道具作りなど、下っ端仕事を数多くさせられました。
もちろん、その中で映画制作の方法や技術を学ぶことができました。
TV番組の制作でよく見る、ADさんの様な立場なのかもしれません。
実際、強豪校の運動部でも似た様なものだと思います。
通っていた高校では、6月くらいに「文化祭」があり、大体そこで3年生は引退でした。
それまで、下積み生活を我慢すれば良いのです。
私が2年生になった夏から、いよいよ自分たちの好きな撮影ができるようになりました。
私が撮りたかったのは、「特撮映画」でした。
素人の高校生の演技など観られたものではありませんので、いわゆる普通のドラマとしての映画は無理だと思いました。
(私世代くらいの方「中学生日記」って覚えてます?)
私は、私の通う高校の学生を、単純にびっくりさせたいと思っていました。
そのため、舞台は自分の通っている高校で、あらゆる特撮技術を駆使して、日常の中で、不思議な映像を満載にしたかったのです。
その高校に通っている学生には必ず「ウケる」と言う自信がありました。
撮影が難航
好きな作品への思い入れが強すぎて、自分の映画にもあまりに多くのことを盛り込み過ぎていました。
エキストラ出演をお願いした同級生や部員は30人はいたと思います。
彼らにもとても迷惑をかけました。
撮影スケジュールが押して長時間待たせた上、結果ほとんど出演シーンがなかったりもしました。
明らかに嫌々付き合ってくれている人もいました。
私自身、「映画監督」と言うものに少し酔っていたのかもしれません。
今思うと、無償で付き合ってくれた彼らにちゃんとお礼を言ったのかすら、思い出せません。
最初に考えていた脚本や絵コンテからは、どんどん逸脱し、拡大しました。
最初5分ほどの映像作品を作るつもりだったのに、自分ですら完成形が見えなくなっていました。
そしてさらに、決して安くないフィルムや現像代は部費を圧迫し始めました。
そのことで、他の部員と険悪になったり、話し合ったり、色々なトラブルがありました。
映研で知り合った友人がとても助けてくれて、ものすごく多くのことを学びました。
集団で「何かを作る」ということ自体の難しさと同時に、他人に「自分のことを理解してもらう」難しさも味わいました。
その時の苦労が、社会に出てからも随分役に立っている様な気がします。
文化祭での上映会
私が3年生になった年の文化祭。
例年通り、視聴覚室では「映画研究部」の上映会が行われました。
過去の先輩達の素晴らしい資産も活用し、会場は満席となる大盛況でした。
他の部員が制作したアニメやショートムービーが流れた後、ついに私の「作品」が上映されました。
私の映画は、総時間が30分以上にもなっていました。
台詞のアフレコが間に合わず、音楽のみが辛うじてついている状態でした。
元からセリフはほとんど無かったので、ストーリーがわからないという問題はありませんでした。
ただ、効果音がつけられなかったのは悔やまれました。
それでも、この映画の製作にはほぼ丸1年かかっていました。
撮影のための費用は、部費だけでは足りず、幾らか自分で手出しをしていました。
高校生にとってはかなり痛い出費だったはずですが、当時はあまり気にしていなかった様に思います。
何しろ、自分は「監督」だと思っていましたから。
数多くの作品が上映され、中でも、過去に賞も獲った先輩の「ショートムービー」が特にウケていました。
逆に、その「長さ」のため、大トリとなった私の映画でしたが、自分で上映を見ながら「あまりに長すぎた!」と大反省していました。
それに、編集のアラがとても目立って、ものすごく恥ずかしくなっていました。
夢中になって撮影し、大急ぎで編集作業をして、出来上がったフイルムに、片っ端から音楽を録音していました。
やっとのことで、映画全体が完成したのは、文化祭の直前でした。
そのため、作品について、自分自身で客観視が全くできていなかった様に思います。
「何故こんなものを人前に出してしまったのだろう??」
私は、恥ずかしさから「その場から逃げだしたい気持ち」を、人生で初めて味わっていました。
上映が終わった後、スタンディングオベーションはおろか、特に拍手が起こるわけでもなく、ざわざわと観客の生徒が退室していきました。
私は、視聴覚室の一番後ろの席で呆然としていたと思います。
「終わったなあ」という感慨や寂しさだけが残っていました。
やり切ったという達成感は全くありませんでした。
そして、それから卒業するまで、その映画を完成させることもなく、2度とそのフィルムを映写することすらありませんでした。
卒業後。
卒業し、何年か経って、大学を卒業して、私ももう社会人になっていた頃、昔の友人から「映画研究部」が廃部になったという話を聞きました。
確かに、今時、映画をフィルム撮影することなどありませんし、スマホのカメラ機能の方がよほど解像度も高く、編集も楽になっています。
残念でしたが、それも時代の流れで仕方がないなとも思いました。
そんなある日、私の通っていた高校の現役生から1通の手紙が届きました。
差出人は男子の1年生で、「自分の力で映画研究部を復活させたい」と書かれていました。
ついては、高校時代の私が撮影したあの映画のフィルムを完成させても良いか、という内容でした。
最初、その文面を読んだ私は、全く意味がわかりませんでした。
私の撮った映画のフィルムは、部が廃部となったことで、当然廃棄されたのだろうと思っていました。
ところが、廃部の際に奇特な教師が、一応保管していて、それをたまたま見つけた後輩が「映画研究部復活の狼煙にしたい」と考えたそうです。
他にもショートフィルムが沢山あったと思いますが、30分以上もある自主制作映画は希少だったのでしょう。
彼は、セリフ音声を入れ、効果音を入れ、場合によっては音楽を差し替えるという許可を求めてきました。
気恥ずかしい思いはありましたが、「お任せます。自由にしてください。」と返事を送りました。
それから、彼からの返事はありませんでしたが、確認しないまま、それから、また何十年も経ちました。
最近、自分の卒業した高校のホームページを見ると、文化部の中に見慣れない「映像研究部」をいうものがありました。
恐らく、当時の映画研究部の、今の姿なのでしょう。
手紙をくれた彼が復活させたのか、そのずっと後の後輩が作った部活かはわかりません。
当然、今更8mmフィルムなど撮影も映写していないと思います。
でも、もしかしたら、あの頃のフィルムのリールが部室の片隅にでも、ひっそりと仕舞い込まれているかも知れません。
そして、私の心残りだったその映画は、名前も覚えていない後輩の手によって、ちゃんと完成させてくれているかも知れません。
そんなことを想像し、ちょっとだけ楽しくなりました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
それではまた次回!
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